FrontJournalの解説
この研究分野について
私たちは、同じ相手でも「以前は仲が良かったが、今は嫌いになった」というかたちで、相手ごとに感情を更新しながら関係を築いています。神経科学の分野では、こうした「誰に対する記憶か」を担う仕組み(社会性記憶)と、「その相手にどんな感情を抱くか」を担う仕組み(情動)が、それぞれ別の脳領域で研究されてきました。両者がどのように結びつき、経験に応じて書き換えられるのかは、社会性の神経基盤を理解するうえで長年の未解決テーマでした。
①海馬腹側CA1と扁桃体のシナプス結合が感情の"リンク"を担う
研究グループは、マウスに親しい相手から攻撃を受けさせる行動実験を組み立て、その前後で脳内の神経活動とシナプスの変化を計測しました。その結果、海馬腹側CA1(vCA1)から扁桃体基底外側核(BLA)へのシナプス結合が強まることで、その相手に対する嫌悪の感情が形成されることが分かりました。「誰か」を担う社会性記憶の情報(vCA1)が、「どんな感情か」を担う扁桃体(BLA)と結びつく回路レベルの証拠が示されたかたちです。
②光遺伝学で感情の生成・消去に成功
研究グループはさらに、光遺伝学的手法でこの経路のシナプス強度を人為的に操作することで、特定の相手に対する嫌悪感を実験的に生成したり、逆に消去したりできることを示しました。相手ごとの感情が神経回路の可塑的な変化として実装されており、その回路を狙って書き換えることで感情の内容自体が変わり得る、という点がポイントです。
③精神疾患の理解や介入への基礎的な手がかりに
人間関係のトラウマや不信感が続く状態は、うつ病・PTSDなど精神疾患の背景にも深く関わると考えられています。今回のような、「相手ごとの感情」を担う神経回路の同定は、こうした状態がどのような回路変化を伴うのか、どこを標的にすれば柔軟性を取り戻せるのかを考えるうえでの基礎的な手がかりになります。研究グループも、神経疾患・精神疾患の理解と将来的な治療法開発への貢献に期待を寄せています。
編集部からひとこと
「相手の顔を思い出す」ことと「その相手に嫌な気持ちを抱く」ことは、日常では地続きに感じられますが、脳内では別々の仕組みが束ねられて成立しています。今回の研究は、その"束ね方"を回路レベルで示したうえで、光遺伝学で書き換えまで確認した点が特徴です。人での臨床応用にはまだ距離がありますが、社会性の障害を回路の言葉で語る土台が積み上がってきたと言えそうです。本研究はJST創発的研究支援事業ほか、複数の競争的資金の支援を受けて実施されました。